おはようございます。Marloweです。
先日はレモンチューハイを飲みながら書評を1本投稿しましたが、 今朝は新しく本を読み始めています。もう3、4ヶ月前くらいに購入して、未読のまま積まれていた本です。
久しぶりに社会学でも振り返ろうと購入しました。社会学は大学を出てからの時期に少しだけ齧りました。大学は法学部で、ほとんど関わりのなかった社会学ですが、脈々と縁があって、気づけば学んでいました。
社会学(部)というのがいわゆる総合大学においてどれほどの地位(?)にあるかというと、皆さんの感覚でいえば、そう立派なものではないかもしれません。法学部とか経済学部とか、文学部、あるいは医学部や理工学部のように、明確なイメージを伴う学部がまずあって、そうでない学部があるかと思います。この社会学部というのは後者に属し、曖昧なイメージをもつ学問の代表格であるかもしれません。
いろいろと理由はあるかと思います。歴史がそう長くないのもあると思います。
ただ、一番の理由は、社会というのはすでにあって、さらには自分がすでに社会に属しているからでしょうか。自分の外側にあるような学問の「対象」ではなく、自分も含めた「総体」であるような……。手にとるように領域がわからないのも理由としてあるかもしれません。
話は逸れますが、私はプロフィール欄で書いたように、大学を出てすぐに就職しませんでした。あえて、しなかったのです。綿密なプランがあったわけではなくて、自分でも掴みようのない圧倒的な意志に従い、就職しませんでした。しかし、葛藤がなかったわけではありません。大学を出れば就職するという「世間的に当たり前である路線」から離れるには、それなりの決断も要しました。こういう、当たり前にあるものを疑う姿勢は社会学のポイントでもあります。こういう姿勢は社会学を学んで養われたなあと思って、今日の投稿に至ります。
学ぶって大事です。
「勉強したい」の背景にあったもの
なぜ23歳を迎える直前の私が、それなりの決断をして就職をしなかったのか。それは、勉強したいから、と一言で片付けられますが、もう少し説明しますと、2つ理由があります。
- 世間とか社会について、わからないことが多過ぎたから(不安)
- もう少し学べば見えてくるものもあると思ったから(期待)
1つ目はまあ言わずもがなです。世間や社会なんて若造に簡単に理解できるものでもないし、ある意味いつまでたっても理解し得ないからです。しかし、そのときのMarloweは、あまりにも教養に欠けた人間で、このまま普通に生きていっていいのだろうかと、不安だったのです。サラリーマンになってしまえば、まとまった勉強ができなくなる。人生これでいいんだろうかと。わからないなりに生きていくことに耐えられなかったのです。
で、2つ目が今回の触れたいことです。大学を出るときのMarloweにも、ぼんやりと思うところがありました。それは、「もう少し勉強すれば何とかなるんじゃないか」ということです。手応えの1歩手前ですかね。
大学を出て、当たり前に就職する──そういう自分をまずはぶっ壊したい。そして、当たり前に囚われずに、まずは自分を信じて勉強したい。これが当時あった感覚です。自分をぶっ壊して、遠回りしてでももう少し勉強すれば、少しは見える景色が変わるのではないか。漠然とですが、信じるものがありました。
もちろん世間にはそういうケースで生きていく人も多くいることは知っていますが、1度思い立ったら何でも自分で見て触らないと気がすまない私ですので、最終的にはこの静かな衝動に従いました。
とある書店で受けた衝撃と一目惚れ
高校時代。通学途中に街の大きな書店がありました。本に触れ始めたとき、その書店によく通っていましたが、通い始めたときに受けた衝撃は今でも覚えています。
「もしここにある本を全て読んだら、今の自分の悩みなんてとるにたらないものなんじゃないか。今の自分って、圧倒的に無知だ──」
なに当たり前のこと言ってるんだって思われるかもしれませんが、ときは高校生です。友人関係やあれこれの悩みに敏感で、欲求に振り回される思春期です。自省的になるのが難しく、自分を相対化して冷静に分析することが最も難しい時期です。そんなときに抱いたこの「自分が無知であること」の衝撃は、まるで自分を囲む本棚が遥か高くに伸びていき、自分自身がアリのように小さくなっていくような感覚でした。
そして、無知の自覚と同時に湧いたのは、知識への信頼(というより一目惚れ)です。「もう少し学べば見えてくるものもあるんじゃないか」という漠然としたものの根底には、このとき抱いた知識への信頼(一目惚れ)があると思います。
なぜ勉強するのか
勉強しないと見えない風景があるかもしれないから。これに尽きると思います。これが教師の回答だったら「ふざけるな」と思うかもしれませんが、これは言葉だけで理解させるのは難しいものです。理想的な教師というのは、それを生徒に「(なんとなく)そうだ」と思わせる力がある人です。形容できないけど、そういう「オーラ」みたいな。
今朝、大澤真幸の『社会学史』を読んでいて、こんな昔を思い出したので書いてみました。この本もなかなかの分厚さで、読んでいて「これを勉強して何になるんだ」と思いかけるわけです。実益としても、0かもしれません。しかしいまの私は、「実益としては0かもしれないものの積み重ね」で成り立つ1人の人間です。このかもしれないが重要です。私の場合は書店で一目惚れをして、ずっと勉強しているわけですが、少しは心が満たされるときもあります。
(添え書き。学び続ける人には色々な人がいますが、私は囚われて学び続けているタイプです。決して真面目ちゃん優等生くんのように、自らを律して学んでいるわけではありません。これは信仰ではなく狂気に近い……。)
朝から説教めいたことを書いていて嫌だなあと思い始めました。あくまで自戒です。本当に。