100本の投稿について考えてみる

こんばんは。Beethovenの交響曲第9番を聴きながら書いてます(好きだったクラシックがやっとすんなり聴ける調子まで戻ってきた)。

さて、遡ればそれは3月上旬。まるっと自分のブログを読み返す機会があった。気づけば丸4年が経過している。これまでの4年間の言葉に目を通して、そして個々の投稿のあいだにある、言外の時間、無言の空間をも振り返ることになって。

4年間。量として考えるとそれなりだけど、質で考えると34歳を迎える男にとっての過去4年間というのは幾分ドラマ性に欠ける。言い訳がましいけど、若さに勝るものは決してない。

ただ、こういう感覚論とかノスタルジーは抜きにして、ただただ純粋に数量としてぐっと重みがある時間には違いない。振り返ってこそ、まとまった時間が経験になる。

「ブログを始める」というアクションをしたのを4年間の起点としてみる。ブログを始めた動機は、好調とか向上心を発端としたものではなく(当初の投稿で表面上はそう見えるかもしれないけど)むしろ不調とか、ほとんど底にいる状況を打破するための試み、だったのが実際のところ。

そんな始まりだった4年間を大雑把に評すれば、何度もここで使っている言葉「低空飛行」の4文字になる。結論その1。

過去ってだけで、現在とか未来と比べて低く評価しがちな自分だけど、ごくごく控えめに言って成果はまるでなかった。仕事や家庭ではなく、個人として。

し・か・し──と続くからこれを書いている。少しは希望があるようで。

しかし。

最近は目に見えて良い時間が流れていて、身体が機能していて、脳が吸収を欲していて、そして心が何かをアウトプットしようとしている。ちゃんとした言葉を使って、まとまった量の言葉を積み上げようという気持ちになっている、こんな風に。

きっかけは一つのことではないだろうし、単なる偶然、天気みたいなものかもしれない。おぼろげに解答案はあるけど、安易に答えは出さずにもう少し考えてみる。

そう。この不思議な感覚について考えを深めてみる、言葉をもって。

かたちのないことを言葉で表すことは難しい。よく間違いが伴う。言語化することで、言葉で拾いきれなかった事柄を過去に置き去りにしてしまい、拾われて言語化された事柄だけが前に進む。そして、時が経つにつれてどんどんとギャップが広がる。つまり、言葉にしたことだけが未来に残って、言葉にされず、置き去りにされた何かは、いつかすっかり忘れ去られてしまう運命にある。いつかは残ったものが正しくなかったとしても正しいとされ、残されなかったたものが正しくともそれは無かったことになる。

もちろん、仮に最初から全て言葉にしなければ、言葉で表現しなければ、全てをそっくり忘れる。間違いすらない。

でも、自分はこうして言葉を記す。そのなかで、こうして言語化を通じて拾われた事柄だけが良くも悪くも自分のなかに残ることで、本当にあった過去のかたちすら、変えてしまうことがある。言葉にすることで、プラスを生み出すにとどまらず、誤った過去の認識から未来をひねってしまうことも、あり得る。

無論、こうして日記を書かなくたって、人はいつも都合よく過去を違った風に記憶するものだから、それほどシリアスに考える必要もない。ただし、言葉は常に作為的だから、言葉によって生じた弊害は、言語化しなかった罪よりもより大きく、罪深くなる感じがする。

だから、いまあるこの不思議な感覚を、こうしてブログに書き記して言葉にすることにも、もしかすると決定的な間違いがあるかもしれない。予防線を張っているのではなくて、事実として。ただ、タイピングする指は止まらずに、動かすことで思索を巡らせていくのが自分である。しつこいけど、たとえそこに間違いがあっても。

2日に1回は走らないと気が済まなくなってきた

ふむ。この落第の4年間でも、ずっと低空飛行で、ほとんどお酒を飲みながら書いていた4年間でも、間違う可能性を前提に、何とかして言葉を残してきた4年間には違いない。日常で他人と交わす口よりも、タイピングする指のほうが10倍以上、いや1000倍以上、雄弁で正直な自分だから。ここでは比較的、自分と向き合ってきたつもりである。そもそも、自分には言葉しかないと思っているから。これまで吸収してきたこと(=知識)にはほとんど価値はなくって、絞り出す言葉をもってのみ、自分や人のためになれると思っていたから。

結果的に、100個の投稿の「中身」に救いはなく、淡々と(時に淡白すぎるときはあったけど)残してきた「行為そのもの」にこそ、救いがあるような。

そう。言葉にすることで、言葉にならなかったことを忘れてしまう、とはさっき書いた。でも、ちょうどドーナツを作るように、輪っかの生地の存在で、本来そこには何もない穴を存在させ、ドーナツをドーナツたらしめるように、過去の日記を遡ることで、言葉にはなっていない空白の存在、言葉に成りきれなかった自分、表現を差し控えた自分を読み取ることができた気がする。(そしてこの投稿にも、ドーナツの穴がある。いつかの自分はしっかりと読み取れる自信がある。)言葉と言葉で空白を浮かび上がらせる、とか、行間に人の本質がある、とか、そういうことか。

これが成長なのか、あるいは復調なのか、変化なのか。

何でもいいけどひとまず、これからの自分に何が必要なのかはわかった気がしていて、それは進歩と呼べるかもしれないし、これからも言葉は極めて少ない友人の一人として付き合い続ける必要があるなと。これが結論その2。

ふう。そんな感じ、です。

原画から魂を感じるなど

最後に、これからの100本について。考えを進めると、課題感を感じる。

それは、言語化することが不完全な行為だと言い切ってしまうこととか、自分の言葉に責任を持たないことに他ならないのかな、と。次の100本、というよりかは次の4年間くらいの時間では、記す言葉に責任を持たせることが、改めての目標になるような。やっとスタート地点に立ったというのはネガティブ過ぎる表現だけど、ここでできないならできる方法を確保せよ──というのが、to Nihombashi Exitなんでしょう、と自分にだけわかる表現で締める。

今週は職場環境もふわつく時期に差し掛かるけど、フラットな気持ちでそつのない仕事をしよう。ということで、また。