33歳の振り返り(2024年3月の振り返りに代えて)

さて、こんばんは。

暖冬を忘れるような冷え込みと、季節外れの降雪、そしてところによっては夏日までもたらした稀有な3月が終わった。そしてそれがどんなものであれ3月が終わったということは、年度が一つ終わって、自分が一つ歳を重ねようとしているということ。つまりは、毎年恒例の振り返りをしなければならないということ。これは限りなく義務に近い自由。

1年が12ヶ月であるからして、本来であれば12分割してフェアに毎月を振り返るべきところ、現在の心境としては4月から2月が20%、3月を80%くらいの割合で書いてしまいたい。もう、別に1年間振り返らなくたっていいじゃん、って。単に記憶の鮮度に由来するものではなく、12等分して振り返った結果、それでもなお8割方、3月が光明の月になったのではないかという(仮の)結論に由来する。

でも、こうしておざなりに扱われる11ヶ月間も、今月を生み出すための布石であり(盛りすぎ)大切なプロセスだったと考えるならば(結果論)しっかりとフェアに扱って振り返る必要がある(とりあえず)。

筆が少々乱れ気味だけど、気にせず書き上げてしまって33歳を終えよう。ということで、愚直に2023年4月から振り返ってみる。

過去の自分を見て「変わった」と思えることは希望だと思う。内面の変化は精神の病から自分を遠ざけてくれる。

4月には33歳にして初めて人事異動なるものを体験した。順応というか、新しい関係を築いていくのが本当に億劫だったような記憶が。

逃避? 失望? 形容し難いけど、そんな感じ。ちょっと環境が変われば…と期待した自分がいたのかもしれない。ひとまず、2023年4月はスロースターターだった。停滞という布石。起承転結の起。

5月。

相変わらず彷徨っているという印象。社会というか外界との接点を持とうとはしていないような。平常運転。

6月。

アクティブだった5月から転じて、予定調和的に身体を壊している。30歳を越えてからずっと身体をうまく使いこなせていなくて、基礎体力の欠乏を窺わせる。もちろん、これは先月の走る習慣の存在があってこそ気づけることではあって。

7月。

夏にしては元気。ここ4年間のうち、外的影響を抜きにしてただ純粋に自分のキレが最も好調だった夏かもしれない。でも、スタートラインからの前進は僅か。去年より暑さがマイルドだっただけではないかと。

8月。

夏を克服した様子が見て取れる。でも肝要の習慣化はなされず、相変わらずスタートラインからちょっと走ってバテている。

9月。

なんとか頑張ってるけど、不本意ながら仕事に忙殺されつつある。先輩や後輩への情(なさけ)は全くないけど、自分がやったほうが上手くいく、早く終るものを、率先して背負わずにはいられないという「真面目(<いらち)」な一面や、上席からの信頼を裏切れないというサラリーマンの面目(そんなものは持ち合わせていない)を保つために、ちょっと頑張って仕事してバテている。もう少しだけ、ほんの少しだけ力込めて最初から仕事やっとこうな?というのが来期の自分への教訓ではある。

10月。

父親が本格的に倒れて(時限爆弾的なやつ)母親の機能不全も一層際立って「(両)親の介護」という一人っ子の宿命が早々に顔を出した10月。音楽なんか聴いてる暇ないよって、ストリーミングをやめて手間のかかるCDを買ってるあたり、倒錯してる。疲れてたのか、そうかもしれない。そして自分の撮った映画のロケ地を巡るのは現実逃避でしかない。今そこには何もないってことを再確認するという、空虚なノスタルジーおじさんの1ヶ月。強めに自戒しつつ、空っぽを確かめることはやっぱり嫌いじゃない(好き)。喪失感は無ではない。そこに空っぽが、ある。

11月。砥峰高原。

頭をもたげた欲求とか指向は全部実行しよう、というのが自分のテーゼ。「ちょっと砥峰高原に行ってみたい」というささやかなタスクを解消したのがハイライト。

12月から1月にかけて。

映画『PERFECT DAYS』を鑑賞して、まるで頭をぶん殴られたような。使ってない神経を叩き起こされたような。自分が何に精通してるかって、それは多分「読書」くらいしかないけど、実はこだわりというか、神経質なまでに気になってしまうのがあらゆる「音」。

映画『PERFECT DAYS』では、(初老の)役所広司が玄関に鍵を置く音とか、仕事前に自販機へ小銭を入れて缶コーヒーを買う音とか、スクリーンから発せられる生活音に品があった。「神は細部に宿る」という言葉が連想されるなど。

自分にとって人と関わる際にとても重要なファクターになるのは、その人が発する音。電話の置き方とか、ペンの置き方とか、物とか人との接触が離れるときの所作・音が美しい人こそが、自分は好き(嫌いじゃない)ってことか。

2月。

なんとなく、また走り始めて。身体を動かすことにデメリットはない──すごく当たり前のことだけどあえて書いておく。これを読み返しているとき何らか調子が悪いなら、とりあえず10キロくらい走ってこいよ自分、と。

3月。

3月に何があったか以前に、100本目の投稿をしっかり目に振り返ったのが3月だった。メモリアルなことが嫌いな自分なのに、ここらで区切って振り返っても良いかとポジティブな心持ちで。100という数字に意味はなくとも、それだけまとまった時間が経過していると思うと、思うたびに何度も、何度も、妙に感慨深くなる。良い意味でも、悪い意味でも。このあたりについて考えるのは今後の宿題に。

34歳どうしよう

33歳を過去とする前に、考えてみる。前提として、過去というものにほとんど興味がない。──いや、これは正確な表現ではない。正しくは、過去に興味がない、か。

自分が34歳になるにあたり、本来は既に生きた33年間をベースに何かを考える、というのが正攻法。でも別のやり方が最近は馴染んでいて、人生を線で捉えることに限界があるというか、自分自身に線的なものを感じないというか。普通は何か準拠する・ベースになる「私」があるかと思うけど、そういう設定はしたくない、というかできなくって。これは、やっぱり前提。ぼんやり書いていて、そう思う。人間はそんな理路整然に生まれてこない(少なくとも私は)。

そこに方向性みたいなものはなくって、ただ、点としての今があって。今に佇んだまま、極限まで点になって、今どうしたいのか、明日どうしたいのか、来週どうしたいのか、来月どうしたいのか来年どうしたいのかって、そういう風に空っぽの自分に問い詰めて考えるのが最近の自分で、自由で、素直で。

ストーリーとか、物語性とか、流れとか、そういうのは無いこととして(無いこととするまでもなく、そんなものはないとひしひし感じていて)未来を考えたいというのが、自分の自然。方向なき指向性、とでも。

理路整然な人生より、たとえ論理的な破綻があってもフラットに受け入れる。それこそが(物語性の無さが時に苦しくても)素直だと思う。それを前面に表現できなくても、内面に閉じ込めても、誰と共有できなくても。表面上は上手く繕って人生のA面を奏つつ、B面で純粋で素直な旋律を密かに鳴らしてたって、別に良いでしょう。年を重ねようとして思っているのはこんなこと。これを後退とするか、進歩とするか。

動くことなくいつもそこにある京都タワーを、いろんな場所から見上げては歩く。当然、見る角度や距離に応じてタワーの大きさ、かたちが変わる。まるで周りの世界が変わっているような錯覚を覚えるけど、変わっているのは自分のほう。自分の変化に敏感な34歳であろうと、ミニマムな目標を書き記して締めとする。

ではまた。