生き方を選べない不器用でタフな騎士──003冊目『大いなる眠り』レイモンド・チャンドラー/村上春樹[訳]/早川書房/2012年

おはようございます。Marloweです。

とりあえず10本くらいはささっと投稿しようと思っていましたが、こうやって公開される環境にあるとなかなか1つの投稿を書くのに時間がかかってしまいます。

今回ご紹介するのは、私が仮名として拝借する「Marlowe」が登場する小説『大いなる眠り(The Big Sleep)』(1939)。レイモンド・チャンドラー(1888-1959,アメリカ,イギリス)の長編第1作目です。

いわゆる私立探偵もので、チャンドラーの代表的なフィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)シリーズの1作目です。シリーズの最高峰は『ロング・グッドバイ』かと思いますが、まずは順を追って振り返ろうということでこの1作目をチョイスしました。

作品の内容以前に、私が読んだ背景を少し。

初めて読んだのは22歳の12月、ということは大学4年生の12月ということです。このときにはもうレイモンド・チャンドラーにすでに出会っていました。どうしてこのタイミングかと考えてみると、村上春樹による翻訳でこの『大いなる眠り』が出版された月でもありました。裏を見るとやはり初版なので、出版されてすぐに買って読んだということになります。1週間ほどの期間で読んでいることも、表紙裏の記録からわかることです(2回目も3回目も概ね1週間で読みました)。こんな感じで私は本を何度か通読しますので、プロフィールのページでは通算して300冊ほど読んだと書いていますが、それはあくまで本の個体数であって、読んだ回数はもっと多いんだろうなあと思ったりもします。

さて、このマーロウシリーズの魅力は一体何なのか。ここで紹介するにあたりこの1作目をじっくり読みましたが、一言では表せません。「スタイル」と言ってしまえば元も子もないですが、訳者あとがきにおける村上春樹の言葉を引用すると以下の箇所がそれにあたるかと思います。

我々はまずフィリップ・マーロウの身の動きに目を引かれる。そして彼の動きを追っているうちに、その小説の律動に呑み込まれていって、やがて筋の整合性なんて(たぶん)とくにどうでもよくなってしまう。我々が必要としているのは、フィリップ・マーロウという人物の発揮する整合性なのだ。そしてチャンドラーの特徴的な、魅惑的な文体が小説の強靭な律動を作り出していく。

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り(The Big Sleep)』村上春樹訳/訳者あとがき、早川書房、2012年

一般的に小説というのは、主人公である「私」が「あれこれだと思った」「こんな風に考えた」というように思案し、それに基づいて行動するものが一般的なスタイルとして考えられます。しかしマーロウの場合は幾分違います。感情についての説明がなく、まずマーロウの目で見た風景・人物が描かれ、快闊な会話があり、行動があります。というか、それだけです。

そんな文体で小説として面白いのか。主人公に共感できるのかと疑いたくなるかもしれませんが、大丈夫なんです。どこにもマーロウの感情が書かれていないのに、私たちは読んでいて手にとるように、我がことのように彼の心がわかるんです。例えばそれは「蠅が一匹飛んでいる」という意味の描写にさえ、彼の心情が載せられているように感じるのです。これはもうチャンドラーの文体の妙というしかありません。

この『大いなる眠り』は、プロット(筋書き)的に言うと、?なところがないではありません。何件かの殺人がありますが、結局そのうちの1つの殺人については犯人がわかりません(!)。そう、一応はミステリーなのに。作者自身も「私は知らない」と言っているほどです。1冊の本が出版されるときには、物語として成立させるために裏方の人々がチェックをかけるはずです。でもこの小説がこのままの形で存在するということは、「犯人が1人わからなくても別にいいや」「伏線を回収しきれてないけど、まあいいか」と彼らが思って、世に送り出したということです。そう、そんなことはとるに足らないと思えるほどにこのシリーズは面白いのです。

──多少「わけがわからん」というファジーな部分があるくらいの方が、小説としての奥行きが出てくるのではないか、と断言したくなってくるくらいだ。(中略)チャンドラーのそのような特質は、この最初の長編作品から良くも悪くもはっきりと打ち出され、以来最後の作品に至るまでほとんど変化を見せていない。彼の小説には長所もあるし、弱点もある。しかしいったんその長所に呑み込まれてしまうと、弱点はほとんど気にならなくなる。

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り(The Big Sleep)』村上春樹訳/訳者あとがき、早川書房、2012年

これなんです。人間にとっても同じことが言えるのではないかなあと思います。私自身、自分の短所をそのままにして生きていきがちです。良いところがあって、それが全てを覆い尽くせばそれでいいじゃないかと──まあ、覆い尽くせていないのですが。

それはさておき。マーロウはとにかく不器用です。というか、決定的に頑固です。しかし良く言えば、その生き方は完成されています。このシリーズでは出会う女性が皆彼にキスしたくなりますが(!)、それさえも許せるほどに彼の生き方は完璧なのです。彼が結局のところは職業的人間であり、孤高な私立探偵であり、金よりも生き方を選ぶ男であり、女性たちに己の全てを委ねることは決してありません。彼女たちは自分でそれがわかっていてもなお、マーロウに惹かれてしまいます。それを腹立たしく思う読者がいないではないかもしれませんが、やっぱり、ほとんどいないのではないかなあと思います。

──「将来なんぞ知ったことか、警官やエディー・マーズや彼の仲間に憎まれ、銃弾をさらりとよけ、頭を思い切りどやされ、その程度の面倒ですめば、ああよかった、ありがとうございましたと礼を言う。名刺を残していくから、何かまた問題が出てきたときに私のことを思い出してくれると嬉しい。これだけのことを、私はなんと一日二十五ドルの報酬でやってのけているんだ。そして失意と病を抱えた老人が、血液の中にまだ残しているささやかな自尊心を護ることも、その中に少しは入っている。(中略)その結果私はいけ好かない男と呼ばれることになる。いいとも。何を言われようが、私は気にしない。私は同じことをあらゆるサイズの、あらゆる格好の人々から言われてきた。──」

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り(The Big Sleep)』村上春樹訳、早川書房、2012年

マーロウのシリーズを読んでいると、泥のようなブラックコーヒーを飲みたくなり、氷も水も入っていないそのままのスコッチを飲みたくなります。そして自分の生活がなんて生ぬるいんだと自戒し、今日もまたできるだけマーロウになれるようタフに生きていきたくなります。

どちらかと言うと男性が好む小説かもしれませんが、ぜひご一読を。