冷徹なロマンチストを目指して──005冊目『社会学史』/大澤真幸/講談社現代新書/2019年

おはようございます。Marloweです。

2月当初はネタがいくつかあってコツコツと更新していましたが、10日ばかり滞ってしまいました。その理由というのが今回ご紹介する本でありまして。今月の中旬以降はひたすらこの本を読み進めていました。この手の学術系の本はスラスラと読み進めるわけにいかず、小さな頭をぐいぐいとフル稼働しながら読みました。飛び上がるほど絶賛したいような読後感はないですが、頭のリハビリにはなりますし、教養という点においては読んで損はないかと。

ということで、今回はなんともまあ冒頭から読む気の起こらなさそうな書評になりそうでして、これを読んで実際にこの本を購入して読む人は絶対にいないと、不本意ながらこうして書き始める前から確信しております。

ただ、「人の時間を奪うときは決して退屈させてはいけない」というのがMarloweの本懐ですので、できるだけみなさんに身近に感じてもらい、少しでも得るものがあるようにと思いながら書くわけです。

ということで、本題。

社会学ってなに?

社会学って一体なに?」というのはまず感じるところでしょう。これについては以前も少し触れましたが、いきなり本書における答えを書いておきます。社会学とはいかなる学問か。

「社会秩序はいかにして可能か」これを追求する学問です。

(想定ではこのあたりで9割くらいの人がブラウザの戻るボタンを押します。いや、もっと早かったかもしれません。お気持ちはわかりますが、もう少しお待ちを)

はっきり言って、テーマが壮大過ぎて、かつ、いかにも実益に乏しそうなのです。これはもう社会学の不運といってもいい。でも触れたことのある人はわかるはずです、そんなこともないよ、面白いよって。

卵が先か、鶏が先か──

当然のことながら、我々庶民にとっては、独力で社会秩序に大きな影響を与えることができません。我々の多くは大企業のCEOでもなければ、政治家でもなく、はたまた地域の有力者でもない。手元にあるのは清き1票と、ほとんど無縁な被選挙権と、その他様々な政治活動の機会、あとは善良な市民として生きる権利だけ(だけ、と言い切ってはいけないかもしれませんが)です。

要するに、社会秩序というのはあくまで自分の外側にあって、受け入れざるを得ないものとして(概ね)捉えられています。みなさんにとっても、そういう認識でほとんど間違いないと思います。

言い換えると、まず「自分」があって、その外側に「社会秩序」があると。

これは大事なことなので今一度胸に手を当てて再確認してください。自分があって、そして社会秩序がある。うん、そうなんです。

しかし、それは「卵が先か、鶏が先か」という有名なトートロジーにあたるのではないか?というのが今日の本論です。

私が提案したいのは、「社会秩序」が先で、「自分」が後ということです。

つまり、生きているうえで前提されている皆さんの認識が間違ってますよ、と喧嘩を売っているわけです。(でも、当然のことながら皆さんのことは大切です、とても。以下は猫のじゃれ合いとでも思ってください。)

自分は最もコントロールできない生き物ではないか

もちろん人それぞれですが、「自分」というのは誰もがそれなりに愛着をもっていて、生まれたときから着々と、紆余曲折がありつつも育ててきた、いわば皆さんの成果物であります。「自分」は、自分自身でありながら、それと同時に私という人間の「管理人」であり、また「親」であると。「自分」は当然のことながら制御可能で、思うこと考えること為すこと全て、コントロールできると思うわけです。そして当然のことながら「社会」というのはその「自分」を始点として、見たり感じたりするあくまで「対象物」であり、自分の外側にあるものとして考えるわけです。

この感覚は当然のことながら誰にでもあり得る感覚ですが、今回はその当たり前に対して、激し目の疑いをかけてみます。

自分は最もコントロールできない生き物ではないか、と。そして社会は外側にあるのではなくて、自分のなかにもあるのではないかと。

自分とはつまり社会の産物である

私は高校時代にこのことを痛感しましたが、「自分ほどコントロールできないものはない」と思うのです。

例えばの話。

  • 朝ごはんにパンを食べる。
  • 珈琲にはミルクと砂糖を入れる。
  • 電車に乗るときは音楽を聴く。
  • 階段はいつも左足から降りる。
  • 言葉遣いの丁寧な人を好きになる。
  • ふと大切な人の声が聞きたくなる。

これら全部、私の意志を発端としています。でも、その意志自体の発端はどこから来たのか?と思わないでしょうか。

例えば、私があなたを好きになるのは、好きになろうと思ったからではなく、説明しようのない虚無から、好意(意志)がふっと立ち上がったようにしか、私には思えないのです(もちろん好きになろうとして好きになることはできますが、それとて好きになろうとするキッカケが必要ですし、そのキッカケはコントロールできないことが多いです)。

パンを食べようと思ったのは私で、その選択は私にしかできませんが、ふとパンを食べたいと思った私自身を、私は未然にコントロールできていないのです。なんで私はパンを選択したのか、なんで私はあなたを好きになったのか……究極的に意志の出どころを捉えようとしたとき、答えは闇の中にあるように思います。

このように、意志という点を始点とした「自分自身」というのは、実のところ、なんともその生成過程が不明確な代物なのです。俺って一体どうやって俺になってるの?俺の本当のルーツって、俺が選んだんじゃないの?俺って俺って──

高校時代、荒れに荒れて(一般的なヤンキーさん的な荒れ方ではないですが)、私はこの感覚を覚えました。俺がこうしたいと思ってるのは、なぜだ?ということが色々と説明できなかったんです。

そうしてこうして、俺って結局、社会によって生み出された生き物なんじゃないか?と、そういうわけです。そもそも人間というのは、思ったように成長し、コントロールするのが難しい生き物で、スタートの時点で様々なことが所与として与えられている生き物なんじゃないかと。

例えばそれは、生まれた国とか時代とか性別とか容姿とか、そういったものです。おぎゃーと生まれたときだけでなく、生きている最中にも自分で選んでない何物かが自分に取り込まれていて、それらを前提として我々が形成されているのではないかなあと。そう思うわけです。

とても冷徹な学問

この『社会学史』という本を読めば(読めば、というのは言いすぎかもしれません。私の場合は学問的な基礎がそれなりにできていたので理解は容易かったですが、初心者においてはそうではないかもしれません)、社会という曖昧なものに対して命をかけて考えてきた先人たちの思考方法をインストールできるわけです(これってすごいことですよ、やっぱり。人が人生をかけて考えたことをたった数日で、横着してその結果だけ食べることができるんですから)。

彼らの考えていたこと逐一引用すると長くなるので、要は、というところだけ書きます。彼ら先人たちに概ね共通していること。

彼らは皆、ひたすら社会から距離を置いて(傍観)、それでいて心の底から社会にのめり込んだ(同一化)のです

こうすることで、極めて冷徹に社会の様々なことが理論的に説明されていきます。我々が支えとしている価値観なども、あっさりと説明されていきます。

「ああ、あなたがそのように生きるのはこれこれの理由からです。決して珍しいことではありません。お気になさらず。」

「あなたは自分の考えでそのような道を選んだと思いがちですが、おおよそ一般的で何もオリジナリティはありません。」

めちゃくちゃに冷たくないですか、社会学って。

それでいて、ロマンチストである

とにかく、社会学者というのはとても冷徹な傍観者に見えるわけです。だがしかし、そうではないから面白いのです。

彼らは皆、学者としての自分自身をも含めた「人間」を措定する社会というものを、必死に解明していくわけです。社会って何なんだ!社会秩序はどうして可能なのか!と。

これは裏を返せば、人間個人に対する強烈な愛情だと思うのです。もちろん最初はとても冷たいんです。ただ、この学問の最終地点にはやっぱり説明できないところが存在していて、それこそが人間たるものが担うべき部分だと思うのです。彼らがそれを説明することはありませんが、社会秩序ってこうなってますよって答えを指し示すことはつまるところ、それ以外の部分はあなたがあなた自身で選んで考えて生きていきなさい、ということです。

もし、自分が考えるべき領域を知ることができたら、省エネだと思いませんか。それができれば、さらに実りある人生に繋がりそうではないですか。

例えば。私があなたのことを好きになる。そこには色々な外部的な理由、要素があって、それは言わば私が選んだということを否定するような、ほとんど必然とさえ言っていいような外部的な原因があり、ロマンもへったくれもないんだけど、でも結局のところ説明できないところは残されていて、それが結局のところ本当にロマンティックな出会いの部分で、素敵な恋なんじゃない?ということです(は???)。

社会を知ることは、究極的には自分を知ること

またまた、すごく啓蒙的で、例えの不適切な気持ち悪いブログになってきました、ごめんなさい。

彼らの多くに共通していることがもう一つあります。それは、鬱病です。私もとても近しい人で何人か鬱病の人がいたのでよくわかりますが、鬱病はしばしば社会の病と言われます(なった本人からすれば社会の病だと簡単に説明されても困る!ということはあるんですが、ここではあくまで一般論として)。

時代的な特性もあるんですが、近代へ移りゆく過程で鬱病は多く発症されました。それは実は社会学の誕生と近しい時代で、ここには無視できない関係があります。

そして、偉大な社会学者たちの多くは鬱病(神経病)でした。鬱病でありながら大切な理論を残した人も多くいます。

私が思うに、これも結局のところは、社会を説明することが鬱病を克服することに繋がるのではないか、という見込みがあったことを証明すると思うのです。

こんなことでも、社会を知ることは自分を知ること、と言うことができるのです。彼らは鬱病である自分自身を解明すべく、社会を解き明かすことに命を賭していたのだと。

それでも真実があると思いますか?

今回は長いですね。話が変わりますが、最後に大学入試面接のことを書きます。

私はプロフィール欄にも書いたように、いわゆるエスカレーターで進学できる大学へ入りました。そこで、高校3年生の最後に、学部ごとの入試面接がありました。課題図書が与えられていて、読書感想文を予め提出し、面接を受ける、という流れでした。

法学部の課題図書は、『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫著/光文社新書/2006年でした。

長くなるので説明は割愛しますが、この本が解くところは「世の中ぜんぶ仮説にすぎない」ということで、様々な科学的定説とされているものを「仮説」として断言し、疑う姿勢を養うための本でした。

私はどんな読書感想文を書いたか忘れましたが、面接官である教授の1人(この先生は最終的に私のゼミの先生となりました)が最後に投げた質問が今でも心に残っています。

「この世界の99%が仮説だとして、それでもこの世界には追求すべき真実みたいなものがあると思いますか?」そう先生は言いました。

高校3年生の私は一瞬躊躇しましたが、「あると思います」と答えました。

今でもその感覚は変わりません。だから私は、1人の冷徹なロマンチストとして、この世界の説明できそうな部分をひたすら学び、それでも説明できない何かを追い求めています。私は普段はとてもくだらない人間で、罪もたくさん犯しますが、こういうロマンは抱いたほうがいいんじゃないか?ってそれなりの自負もあるわけです。

そんな風にして、今回は久々に社会学史を振り返りました。そして今日も、とびっきりクールに、それでいて熱く生きていこうと思うわけです。

もうすぐ春ですね。季節の変わり目です、みなさんどうかご自愛ください。