Haruki Murakamiはとても魅力的──006冊目『空想読解 なるほど、村上春樹』小山鉄郎/共同通信社/2012年

おはようございます。Marloweです。

さて、3月に入っております。私がこのブログを解説して3ヶ月程度。コンスタントに、と言うには少し更新頻度が低いですが、及第点を与えられるくらいの投稿数は達成しているかと思います。ただ、予想に反して「雑記」めいたものは少なく、私自身の思索めいたものといえば、淡白な「毎月の振り返り」と、「30歳を前にした振り返り」くらいです。

もう少しだけ、このブログで自分の味が出せればなあと思ってます。ちと反省。

さて、今日は本のご紹介です。今回はもう少し味を出そう!ということで、私が最も読んできた村上春樹の解説本について書きます──ハルキスト?ええ、たぶんそうです。でも信者ではありません。好きとか嫌いじゃなくて、それはもう私の一部分となってます。好むと好まざるとにかかわらず。なんちゃって(これはハルキ的言い回しです、わかる人にはわかるはず)。

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Haruki Murakamiとは

特段の説明は必要ないかと思いますが京都出身の兵庫育ち。もう71歳になるんですね。在学中から喫茶店のようなジャズバー(ジャズ喫茶?)を開業して、30歳のときに作家デビュー。そんな感じです(雑)。

もっとも近く、社会的に話題になったのは、2009年に『1Q84』が出版されるときだったかと思います。無論、毎年のノーベル文学賞の時期には候補に上がり、とるかとらないか、ということがニュースになります。でもやっぱり、最も印象に残っているのは『1Q84』の出版前後の盛り上がりです(そのあとも長編をいくつか出版していますが。)。

1Q84』の内容については今後の書評ネタとして置いておくとして(3度は読んでいると思います)、出版前から書店で「予約受付中」というのが大々的に宣伝されていたのは、そして実際に予約が殺到していたのは、『1Q84』のときかなあと。村上春樹は大体4〜5年に1冊の長編小説を発表しますが、このときはやや実験的な『アフターダーク』のあとでした。

1Q84』とはどんな内容か?と周囲が期待するのとは裏腹に、出版前に発表されたのは題名と価格と発売日くらい。肝心の内容は徹底的に隠されたまま出版された作品です。

──それでいて、予約がたくさん入りました(私も予約していました)。そして、かなり売れました。要は、「評判を抜きにして彼の作品はとりあえず読みたい」と思う人が一定数いる、ということです。これは試乗をせずに車を買うような感じでしょうか。Haruki Murakamiには熱狂的なファンが存在します、世界中に。

村上春樹的なものとは

さて、なかなか本の紹介に入れませんが、前提として、彼に対して抱かれている(抱かれがちな)イメージについて少し考えてみます。ここはあっさりいきたいので、かなり雑な考察になってしまいますがご了承ください。

  • オリジナルの文体(好き嫌いがかなりわかれる)
  • わりとすぐ女性と寝る主人公(失礼)
  • 不思議な世界とリンクしている(マジックリアリズムといわれる)
  • 読み終わってもよくわからない、でも面白い(人による)

このような感じでしょうか。

要は、日本的な近代小説から遠い印象を持たれている方が多いのではないか、ということです。洒落た言い回しや、感情に乏しくいまいち何を考えているかわかりにくい主人公などなど…。

ただ、これらに反して、今回ご紹介する本の内容としては、本質的なところではそうではないよ、ということです。

彼の小説は極めて日本的なものに由来しているのです。

例えば漢字

例えば日本的なものとして、漢字が挙げられると思います。村上春樹の小説を語る上でまず「漢字」というのは、みなさん的には意外なのではないかなと思います。

もちろん漢字は中国にルーツがあるのですが、彼が作品において漢字に拘っているということはつまるところ、日本と中国の関係をすごく意識してもいる、ということです。

例として、『1Q84』の引用を。

天吾は両手で、空中にある架空の箱を支えるようなかっこうをした。とくに意味のない動作だったが、何かそういった架空のものが、感情を伝えるための仲立ちとして必要だった。

1Q84村上春樹/新潮社/2009年

天吾とは『1Q84』の主人公です。この天吾が、謎の美少女「ふかえり」と初めて出会うシーンで、彼がとった動作が上の引用です。前提として、作品上ではふかえりと天吾はあかの他人です。でも実はふかえりは天吾の「妹」ではないか?ということが、作品を読んで感じられるところです。もちろん作者である村上春樹は解釈を読者に委ねるスタイルの作家ですので、明言はしていませんが。

ここで、上の動作に戻ります。

天吾は両手で、空中にある架空の箱を支えるようなかっこうをした。とくに意味のない動作だったが、何かそういった架空のものが、感情を伝えるための仲立ちとして必要だった。

1Q84村上春樹/新潮社/2009年

わかりましたかね。これはそう、「兄」という漢字を表現する動作なのです。

少し「文字学」なるものに踏み込みますが、「兄」という漢字は、口と儿(ジン)で成り立ちます。まず、この「口」の部分は、神様への祈りの言葉である祝詞を入れる器「口」サイであると。そして「儿」は横から人を見た字。すなわち、家の祭をしている人を横から見た形であって、これはつまるところ(家の祭をする人は)兄の役目だった──だから「兄」がブラザーなのです。

このことは、今回紹介している本の終盤で紹介されています(白川静という著名な学者の影響があるのではないか?ということが紹介されていますが、長くなるので割愛)。

謎を謎のままとして無視できない、それほどに魅力的

村上春樹の本を読んでいると「?」というところが非常に多いです。

私が村上春樹に出会ったのは、以前書いたように、高校生のときでした。ほとんど読書をせずに生きてきた私には、彼の小説はほとんど理解できませんでした。そりゃあ、いきなり両手をあげて意味のわからない動作をされて「あ、これは兄だ」って思えるわけないじゃないですか。

しかし、ほとんど理解できていないのに、気づいたら次の春樹作品が手元にあるんですよ。そして、それなりの文量があるにも関わらず、高校の授業中なんかにも読み耽ってしまい、あっという間に読了してしまうのです。何作読んでもわからない…どういう教訓があるんだろう…。でも、なんだかわからないけど読んでしまう。そうやってほとんど全ての作品を全て読み、またもう一周、もう一周と読み続けました。

私は彼の作品をくぐるたびに(本当にトンネルをくぐるような感じなのです)、その前と後で、自分が少しだけ、しかしながら決定的に変わっていったのです。成長かなんなのか、よくわかりません。でも、若かった1人の人間が取り憑かれたように何かを希求していたということは、何かしらの成長がそこにあったのではないかと思います。

彼の作品には、「わけのわからなさを帯びた圧倒的な魅力」があると思います。人によっては「わけのわからなさを帯びた圧倒的な謎」として、全く寄せ付けないようなこともあると思いますが、私は前者です。とてもラッキーでした。

目的と手段について

少し話は変わりますが先日、某国のリーダーがひどい記者会見をしました(今に始まったことではありませんが)。ひたすら官僚の用意した原稿を読み、予定されていた質問にだけ答え(というか答案を読み)、あっさりと家に帰りました、と。

これでは、記者会見をする必要もないし、記者が集まる必要もなくて、全てが書かれた紙をメディアに配信すればいいだけなのです。伝えたいことがあるという目的と、その伝え方としての手段が、まるでバラバラなのです。こういうことに鈍感で「まあこういうもんか」と思っていると、発信するほうも受信するほうも、てんで馬鹿になってしまいます。ちょっとは頭を使って考えて、自分の言葉を使わないといけないですよ、やっぱり。目的と手段って、選択を誤ると全てが無駄になってしまうばかりか、勘違いをしながらそのまま生きていって大変なことになります。

さて、少し逸れましたが、何が言いたいかというと、「小説」の目的とは何か、そして「小説」という手段とは何か、ということをちょっと考えてみようよ、ということです。

これを考えれば、村上春樹の作品があえてわかりにくくなっている(そう言ってもいいと思います)理由がわかると思うのです。

教訓をぽいと差し出されても、それは成長に繋がらない

まず小説の「目的」。

これは作品によってまちまちです。しかし彼の作品は非常にざっくりとした言い方をすると「人が成長するためのメッセージ」これを伝えるために、その全てが書かれているように思います。

そして肝心な「手段」。

小説の書き方は様々です。ジャンルからしてそうですね。私小説推理小説、ファンタジー、ホラー等々。そして、それぞれに伝えたいこと、感じてほしいことがあると思います。ただ、共通していることがありまして、それは「物語というかたちで伝えなきゃ」ということです(だから小説なんですが)。

どういうことか。例えば「ウサギとカメ」の話はみなさんご存知でしょう。ウサギのようにいくら足が早くても「サボっていたら、こつこつ進むほう(カメ)に抜かれてしまう」という、あれです。物語の目的(メッセージ)は「サボらずに、こつこつと」だと思います。

これを、例えばこどもに、「サボらずにこつこつやらなきゃだめよ」と言っても、響かないじゃないですか。そうではなくて、ウサギとカメの物語を読み聞かせて「あっ、カメさんのほうがいいんだ」と思ってもらうことが大事なのです。

このように、物語という手段がなぜあるかというと、教訓は直接言わずに、まわりくどいけど物語のかたちにして伝えて、読んだ人、聴いた人の受け取り方に任せたほうが良いからです。自分で考えて得たものしか、身体には残りませんよ、と。

そうして僕らはたくさんの物語を消費して、成長してきたわけです。

で。村上春樹においては、ものすごくまわりくどいけど、それだけまわる価値のある何かを伝えることに、そして読者を惹きつけて考えさせて成長させることに、結果的に成功している作品が多い、ということです。

効率を追求しないほうがいいよってこと

目次にもあるとおり、村上春樹は「効率」を嫌います。彼はそういう点で決定的に「カメ的」な人だと思います。でも、彼のなかにある伝えたいこと、信じていること、これらを人に伝えるとき、どの容れ物が最適かと考えたとき、それは小説という容れ物以外にありえなかったのだろうと思います。

これは読者という他人への信頼がないとできないことです。小説を書くのってすごく面倒なことでしょうから。

私はそんな信頼をどこかに嗅ぎ取って、よくわからないけど、これを読んでいれば良いんだ、必死に考えればそれでいいんだ、と思うようになりました。というか、それ以外のことで効率的に成長することなんてありえないんだとも思いました。

唐突な締めになりますが、本書は、あれこれ考えてもわからなかった部分に一解釈としてのヒントを提供し、愉悦的な読書体験へと多分に貢献してくれる良書です。小説を読んでさらに解説本を読んで…と、かなり非効率ですが、こういう楽しみ方もあるよと、非常にオープンなかたちで語ってくれた著者に感謝申し上げたい!です。

本の紹介はいずこへ

結局いつもこんな風に本の内容に踏み込まずで終わってしまいますが、こういう「わけがわからないけどとりあえず惹きつけるようにしよう」というスタイルはMarloweの味だと思っているので、これで良しとしてください。

いつも読んでくれてありがとうございます。あ、そうそう、今月は村上春樹の自伝的なもの(総括ではなく、父親について語った文芸誌への投稿などを集約したものかな?)が発売されます。これは買わなくちゃと、これまた予約したくなるMarloweでした。みなさんにも村上春樹の魅力が伝わっていれば幸いです(無茶かなあ)。