2026年1月の振り返り

こんばんは。

友人の死というトピックで締まった2025年が終り、その余韻を保ったまま新しい年が始まって、1ヶ月が終ろうとしている。

先月の延長で、年明けからふらふらっとしていた。常にふらふらっとしてるけど、よりふらふらと。

撮る写真もどこかトーンが落ちている。ように見える。

寒いのか温かいのかよくわからない、今年の冬。

考えを巡らすようで、何も考えていない。ゆっくりと不規則に動き続ける脳みそを乗せて歩いた。目的地はなくって、何かを探すでもなく、彷徨うこと自体が目的のような。

もともと大したテーマがない長尺の映画に迷い込んで、誰かに「この映画にテーマなんてないんだよ」と明確に知らされて、途方に暮れるような、あるいは自明のことだと再認識、するような。

友を失った喪失感と、そもそも友という存在が日常に密接に存在しなかった事実、その虚しさが、二重の喪失感になって佇んでいる。

今まで少しあったものが、完全になくなる。

今までほとんどなかったものが、完全になくなる。

この狭間にいるんだろうか。

先月、札幌へ行った。それで追悼と巡礼をした気になってはいたものの、まだ言い切るには何かが足りない。もしかすると、いやおそらく、永遠に満たされることのない欠乏感かもしれない。

段階を踏んで喪失感や虚しさの色合いは変わるけど、重心を失ったコマのように、安定した回転を取り戻すことはないのかもしれない。この不安定感がいつしか日常に絡め取られて、自分なりの回転として、アンバランスという種類の定型を得ることはあるかもしれないけれど。

ふわふわともやもやを共有するために、数人と弔いの会合をした。そしてもう少し大きな弔いの会を開く予定を整えた。

まだ先も先だけど、これは自分の責務ということで。

いまいち上がらない写欲。

何かを見ているようで、何かを撮っているようで、実は何物も見ていない、撮っていない。都会に行っても一緒で、むしろ無刺激な対象物が増えて、視点が余計に定まらない。

彩度を上げたり写真に手を加えてみても、どこか黒い部分を強調したくなるのがいまの心持ち。

おそらく、彼は自分にとっての鏡として機能していた。

彼に会うことで、真の自分が見えた場面が多くあった。会う前はいつも、彼自身を確認するつもりでいて、会ってみると、話す自分の言葉にも耳を傾けていた。

もちろんこれは友人の一機能だろう、一般的に。

彼がその適任だったのは、多くの人よりもブレない姿勢で生きていたからだろうか。前回会ったときからの差分は、彼にではなく、いつも自分のほうに多くあったから。

この差分を確かめる術を失った。そして未来にあるはずだった確認ポイントもまた、なくなった、ということ。だろうか。鏡のない世界。

このブログが、その役割を担えるか。

変化がないことに、耐えられない人間なのかもしれない。

同じ場所に住み続けて、同じところを訪れる動機は、そこを定点として、鏡に見立てて、自分自身の差分を見出すためなのかもしれない。

自分を顧みる自分とか、進歩という名の変化を求める自分とか、そういった自分がいつまで経っても居続けている。今、現在という点ではなく、点から点への動き自体にこそ意味や意義があると考える自分がいる。考える、とか、生み出す、という行為自体が、点ではなく動きのある行為だからこそ、そういう行為こそに生きがいを感じる自分がいるからこそ、こういう事態になっている。

だから、どうする。And what do I do?

考えるテーマとか、生み出す何かが、日常にない。

こうやって考えると、友人の死自体が何か新しい問題を自分に提示しているのではなくって、元来の自分の課題だと、思うに至りつつある。

要は、積年の課題と対峙する日常から、彼がいなくなったということ。

少し、クリアになってきた。かもしれない。