34歳の振り返り(2025年3月と4月の振り返りに代えて)

久しぶりに書いてみる。あれ、もう5月だなぁと。

今年は忙しさと忙しさの間に全く書く気が起こらなくて、良く言えば「書くことを求めていなかった」、悪く言えば「書けなかった」。

そもそも書く気がなかったので苦しんでもいなかったけど、いよいよ4月も終わるので、とりあえず。最新のCPUが良いみたいで何となくタイミングも良かったからMacBookを新調して、書斎を整理して、漸く書く環境が整ってきたから(環境だけ)試みてみる。

──さて。

標題のとおりに、順番に2024年4月から振り返る。写真は先月と今月のもの。(MacBookAirのキーボードいい感じ。)

 

遥か昔に感じなくもない。そういえば去年は年明けからこつこつと走っていて、体力もあって身体も引き締まっていた。そのモチベーションは乾きだったのか、何なのか。

そう、これは良い映画だった。映画というか、まさにハッピー・アワーだった。

新しい言葉を賜ってということで。文は人なりだと思ったら、やはりそう書いていた。言葉にすがって生きてきたけど、たまには言葉がなくても良いのではないかと。その延長で、この一年間の文量になった気がする。

懐かしい写真が溢れる。音楽も溢れる。

とりあえず今月のヘビロテだった1曲を記しておけば後で読む自分にはわかる。

そういうこと。

良い夏だったなぁと思う。この一年間は定期的にメモリアルな休日を積み重ねてきた節があって、量は多くないけどぽつぽつと良質な体験ができたように感じる。

頭でっかちで理詰めな脳みそがシフトして、感受性が前に出てきて案の定、少し落ちている。適応力というか、こうやって過ごしていれば安心するという法則を得て、例年より落ちずにすんだ夏。

こうして夏の投稿を読み返すだけで「あぁ、もうすぐ夏が来る……」と思うくらいに夏恐怖症ではある。でも、写真を見返すと「良い夏だったなぁ」となるのが例年と異なる気がしている。

すっ飛んで年末になった。

昨年くらいからそんな感じだったのか、もう読み返すのも面倒でよくわからないけど、何か言葉を記そうという試みから距離を置いてみたとき、どうあがいてもコップが満タンにならない感覚を覚えることがあった。これまでも、そしてこれからもきっと。因果関係はわからないけど、何かを書くことはライフワークのようなものだった側面がある、かもしれない。

ただ、以前の自分のような(以前って、いつだろう)頭が実際にねじれている感覚になるくらい、眉間の皺がそのまま顔に残ってしまうような感覚になるくらい、何かを考えていたときの自分と比べて、いま、そうではない自分を以前の自分の延長線上に置いたとき、これが良い状態なのか悪い状態なのか、いまいちよくわからなくなってくる。

というよりも、そもそも良い状態のときって、あったのか。

これはまさしく、言葉にすがってきた自分と少し距離を置いてみた感覚の第一印象なんだろうか。良い状態が何かはわからないけど、今でも脳みそを極限まで捻って言葉とか思考を抽出する快楽は頭が覚えてはいる。ただ、それはいつでもできるなとも思う。機が熟す時がこれから先にあればそういうことだし、なければないでそういうこと。

そう、the pillowsが解散した。the pillowsを30分くらい聴くと思春期の自分が解凍される。救ってもらった感覚も、強く生きようと決意した感覚も思い出す。

こないだのようで、もう2ヶ月前か。

忙しすぎて体力的なことに起因して感度が落ちていることは否めないけど、良い思い出の積み重なりを感じる。

3月、4月は春を感じることができた。35歳になって感じることは特段ない。今の仕事をずっと続けていても仕方ないと思うことはある。ただ、手を抜くと今のイージーな立ち回り可能なポジションを失うだろうからそれはできないという微小のジレンマがある。

少し時間ができたらもう少し頭を捻って考えてみることにする。